
杉原千畝、命のビザ
名前が、この丘に刻まれるまで
章ごとに約1分の語りが、その場所で流れる iPhone アプリの物語です。
歩く前に、この人のこと。
岐阜県八百津(やおつ)町。1940年の夏、ここから遠く離れたリトアニアのカウナスで、一人の日本人が紙を書きました。その紙を持った人々は、シベリア鉄道で東へ向かい、ウラジオストクから日本海を渡って、敦賀の港をめざしました。
紙を書いた人の名は、杉原千畝(すぎはらちうね)。この町の年表は、彼がここで生まれたと記しています。
けれど、その名がこの町の丘に刻まれるまでには、長い時間がかかりました。これから三つの場所で、その時間をたどります。橋の上では、帰ってきた彼に何が起きたのか。人道の丘では、誰が彼を見つけたのか。そして記念館では、彼がいったい何を書いたのか。
町の橋から、丘の記念館へ。
YAOバス「八百津港町」から歩きはじめ、章の順にめぐります。
番号の順に歩きます。現地では、アプリが次の章まで道案内します。
3つの章
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01 ・ 駅から徒歩1分旧八百津橋
旧やおつばし1940年〜1968年 — 「存在しない」と言われた人坂の上の丘で、彼を見つけた人の話になります。
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02 ・ 前の章から徒歩60分人道の丘公園「命のビザのモニュメント」
じんどうのおかこうえん、いのちのビザのモニュメント1968年〜2000年 — 先に名を呼んだのは、外から丘の奥の建物に、彼が机の上で書いた物が残っています。
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03 ・ 前の章から徒歩10分杉原千畝記念館
すぎはらちうね記念館1940年〜2000年 — 残ったのは、紙と一行
その場所に立つと、聴こえる。
橋の中ほどに立つと、木曽川の向こうに、本町通りの家並みが見えます。栗きんとんを売る老舗の並ぶ、古い街道筋です。この町の年表は、一人の外交官がここで生まれたと記しています。杉原千畝。昭和15年、1940年の夏。彼はリトアニアのカウナスで、日本の領事館を預かっていました。ナチス・ドイツがポーランドに攻め込むと、迫害を逃れたユダヤ人を中心とする人々が、まだ独立を保っていたリトアニアへ逃れてきました。そのリトアニアも、ソ連に併合されます。東へ逃れようとする人々に要ったのが、日本に上陸して、別の国へ向かうことを認める「通過ビザ」。それを書けるのが、領事館を預かる彼でした。
つづきは、アプリで。第1章は無料です。
所要・料金・行き方
- 起点
- 名鉄広見線 明智駅からYAOバスで「八百津港町」下車(本数少なめ)→降りてすぐ旧八百津橋
- 所要
- 徒歩約4.8km・丘への上り約4km(バス・無料シャトル可)・滞在込み約2時間半〜3時間
- 行き方
- 名鉄広見線 明智駅から、YAOバスで「八百津港町」下車(本数少なめ、要時刻表確認)。土日祝は無料観光シャトルタクシーも利用できます。
Sources寺社・自治体などの公式資料にもとづくノンフィクションです。
八百津町公式「関連年表」 / Daily Shincho(2016年の指摘) / Daily Shincho(2017年の削除) / BPO決定第68号 / 八百津町公式「名誉回復について」 / 人道の丘公園 - Wikipedia / nippon.com「杉原千畝の名誉回復」 / 八百津町公式「杉原千畝記念館のご案内」 / NPO法人 杉原千畝命のビザ 公式 / nippon.com「外交史料館の杉原リスト」